真の異文化理解へ
初めて中国に行ったとき(1990年)、いつもはお義母さんが料理をしてくれた。
しかしある日私の自慢料理を皆にご馳走しようと思い立った。それは、鶏肉のトマトシチュウ。たまねぎや、にんじんなどの野菜もたっぷりで、時間をかけてコトコト煮込んで、鶏肉とトマトの酸味が絶妙なハーモニーの一品である。何とか材料を手にいれ、ほぼいつもの味が作り出せたので、もう得意になって家族や親族の待つテーブルの真中にドンと置いた。
「どうぞ!」
その瞬間、お義母さん、お義姉さん、甥っ子達の目つきが、心なしか、ギョッとしたような気がした。
ま、まあ、気のせいでしょ。気を取り直して、お義母さんが作った他のおかずをつまみながら、みんなの様子をみているとだんだん、あることに気付いてきた。ワイワイ言いながら、楽しそうに食事は進んでいくが、みんな私の料理には、箸をつけないのだ。でも一口ぐらいは、味見してくれるでしょう?
切なる思いで、彼らを見つめるが、何事もないように箸は私の料理を素通りしていく。
ええ?でも、一人ぐらいは、食べてくれるでしょう・・・・・? ところが、とうとう誰一人箸ひとつつけないまま、食事は終わってしまった。
ガガ―ン!
何なのこれは?あの優しい家族はいったいどこに行ってしまったの?
普通、日本人なら食べたくないものでも一口ぐらいは、箸をつけ、たとえ、まずいときでも、「うん、まあ、いいんじゃない。」とか、社交辞令の一つも言ってくれるものだ。
しかし幸か不幸か、中国人は率直な表現をする人が多い。思った事をそのままいうし、態度にも表す。彼らの愛情に何の変わりはない。彼らは、私の作った料理が好きではなかった。だから、食べなかった。
ただ、それだけのことである。それだけのことだけど・・・やっぱりすごいショック!
日本人と中国人の間で、理解しあうのが難しいのがこの表現の違いだ。中国人は直接的で明快な表現、日本人はソフトで曖昧な表現を好む。
このシチュウの一件をセミナーなどで多くの日本人に話してきた。ほとんどの日本人の反応は驚きとショックだ。私の話でショックをうけるくらいなら、実際に体験をしたらその気持ちはいかばかりであろうか。日本人って本当にナイーブだ。
一方多くの中国人にもこの話をしてみた。その反応は、「そんなの当たり前。何を気にいしているの?」といったもので、私がなんでそんなにショックを受けたのかがわからないといった様子だった。
一見、簡単に超えられそうなこの「表現の違い」という壁は思った以上に厚く高いものであることに気付かなくてはいけないと思う。そして「中国人はおっかない。」とか、「日本人は何考えてんだか分らない。」などと批判しあうより,
お互いの表現を理解することが肝心だ。これこそ真の文化理解ではないか。
最近、世間を騒がせている日中問題・・・。
その中にもこの文化の違いが見え隠れしているようでしょうがない。